中央ネパールの渓谷を標高4,200 mのアンナプルナ・ベース・キャンプまで登る16日間、僕はずっとこのカメラを肩にかけ、共に生活した。
結果、カメラは汗まみれ。岩にもガンガン当たりまくり(もちろんわざとではない)。大気はほとんどいつも埃っぽく、旅も終盤にさしかかる頃には、この粉塵がGF1の隙間という隙間に入り込む始末。それなのに、このカメラのパフォーマンスは完璧だった。どもったり、文句を言ったり、僕が求める写真を撮り損ねたりすることは一度もなかった。失敗作すらほとんどなかった。
パナソニックのGF1ボディと20 mm f1.7 Lumixパンケーキ・レンズのコンパクトな組み合わせは、旅人には最適だ。軽量で頑丈で有能細部まで考慮されて作られたこのフォト・キットは冒険へと連れて行けとまるで要求しているようだ。
彼女のストーリーはいたってシンプルだ。90歳になる農場の女性。平均寿命65歳というこの国では奇跡に近い。テネシー州で言えば、111歳の女性に出くわすようなものだ。その人生の大半を水田地帯で過ごした111歳の女性。
彼女はこの村(人口約1万5,000人)で最年長である。そして家族の反対などお構いなく、いつも何かしら仕事を手伝っている――ひっきりなしに溜まる埃を掃いたり、食事を用意したり。動くのをやめたら死んでしまう、と言いながら……
彼女の手は、その顔と同じく風雨に晒されていて(でもやわらかい)、僕は左手で彼女の片手を握りながら、右手で彼女の写真を撮った。
GF1は小型でファインダーがないため、相手に威圧感を与えない――だからその場の状況にすぐになじむことができた。僕は彼女の孫息子ホムの通訳を介しておしゃべりをしながら、彼女のスナップを撮った。
サイズ
これほどクオリティの高い写真を撮ることができて、しかも一日中ずっと首から提げていたいと思えるようなカメラは、世界中にほんのわずかしかない。数週間、毎日持ち歩いていたいと思う。それだけでなく、同等の性能でデイパックにすっきり収まるカメラもほとんどない。つまり、これを入れても、荷物一式に加わる重さはほんのわずか、ということだ。どんなトレッカーにとっても、一日何千フィートも登るとなれば、数十グラム増えただけでも100倍ぐらいの重さに感じられるのだから。第2日目、僕の首はいつものニコンのカメラではなく、GF1を提げる僕を好きになり始めていた。
デザイン
スタイリングは控えめでシンプル。この手のカメラはマニアの注目は集めるが、一般人の目を引くことはほとんどまったくない。実際これに注目する人は、どういうわけか、これがデジカメではなくフィルム・カメラだと思いがちである。それがこのカメラのデザインに関するほめ言葉だと僕は思う。
インターフェイス
パナソニックは2つのインターフェイスのクリティカル・ポイントを達成するという快挙を成し遂げた。これによって、ほとんど煩わしさを感じることなく非常に多くの特徴を利用することができ、一方で本当に必要としない限り、それらを「無視」させてもくれる。ボタンはしっかりとした感触で、つくりもいい。旅が終わる頃には、絞り優先で撮影したり、自分の好みに合わせた設定にしたりするのが楽々とできるようになっていた。
渓谷の峰をハイキングしている途中、ある場面が眼に入ると、僕は何度も、肩にかけたカメラを素早く手にとり、それを眼の高さまで上げ、電源を入れ、fストップで光を補正し、撮影し、電源を切るという動作をほんの数秒ですることができた。もちろん、プロ仕様の高性能カメラならこうしたことも可能だろう。その違いは、GF1なら撮影と撮影の間、ほとんど邪魔にならないということ。つまり、大きくて重い鉄の塊が首からぶら下がっているという感覚が一切ないのだ。
構成
非常によく考えられた、がっしりと重みのあるカメラ。ボディは多少手荒に扱っても耐えそうな感じがする。僕が自信をもって言えるのは、山の中で何度も激しくぶつけたにもかかわらず、GF1は新品同様の外観を保ち、新品同様に機能するということだ。
HDビデオ
僕にとって一番の驚きは、GF1でビデオを撮るのがこれほど楽しいとは思わなかったということ。シャッター・ボタンのとなりに専用の動画ボタンがあるので、動画モードを起動するのはとても簡単で、しかも動画を撮りたい気分にさせてくれる。ターゲットを選び、焦点を合わせ、カメラをセットしたら、あとはお任せ。HDビデオと20 mm f1.7レンズの浅い被写界深度の組み合わせにより、思いがけないほど魅力的で映画のような結果が得られる。ただ残念なことに、GF1はマイクを外付けすることができない(そして音声もモノでしか取り込めない)。でも、道すがらのちょっとしたスケッチを撮るだけなら、まったく問題ないはずだ。
1/3200 sec, f/1.7, ISO 100 1:1 Zoom
これは僕が撮った彼の最初の写真である。フェディから急な石段を登り始めて数分しか経っていないのに、僕たちはもうクタクタになっていた。すでに汗だくで、一体どこまで続くんだと思っていたとき、早朝の光の中に彼の姿が見えた。
今、あの時には見えなかった何かが見える。彼は少し背中を丸め、石段の方に俯いている。その肩には、後の写真には見られない、何か重いものがのしかかっている。
最後の日になって初めて、彼が最近弟を亡くしたことを知った。何かの事故だったらしい。このトレッキングが始まったときは悲しかったけれど、一緒に歩いていくうちに何かが変わった、そう彼は言う。それは心惹かれる、的を射たメタファーである――僕たちが一緒に中央ネパールの渓谷を登るにつれて、彼の魂は天へと昇っていったのだ。
これと同じような写真を僕は何十枚も撮った――イメージが突然、山を登っている最中に浮かび上がってくるのだ。14 kgもの荷物を背負い、休むことなく、激しい運動を続けるさなかに僕はそんなイメージを絶え間なく捉えることができた。カメラが常に僕の首から下がり、いつでも撮る準備ができていたからだ。
GF1のAE(絞り優先)機能で撮影するのは簡単だ。必要なすべての制御の99%が、簡単にアクセスできる3つのボタンで操作できる(図を参照)。
初期設定により、サム・ダイアル(上右)でfストップ(絞り値)をいろいろと変えることができる。従来のレンズにある絞りダイアルを使えば、素早く正確な一度の動作で、fストップを最低値から最高値へ切り替えることができるが、f1.7からf16までをサム・ホイールで切り替えるのは、それよりもはるかに面倒である。しかし僕の場合、その場の光を補正したり、被写界深度を制御したりするための絞り操作の大部分が、狭い範囲に限られていることがわかった。だからこの切り替えを面倒だと思うことはほとんどなかった。
サム・ダイアルを押し込むと露光補正に切り替わる。この状態で、「適切な露光」として定められているものよりも、少しだけ露光不足または露光過多にすることができる。これは、細部が光でつぶれやすい明るい屋外の光の中で特に有効である。
サム・ダイアルのちょうど左にあるのが、便利な自動露光/オートフォーカス・ロックである。GF1は通常、自動的に露光やフォーカスを合わせてくれる。この機能を使うことはめったになかったが、必要なときにそれがあるとわかっているだけでも心強かった。
数年前、フィルムカメラで写真撮っていた頃、僕はたいていISO 50スライド・フィルム、富士フイルムのヴェルヴィアを使っていた。使ったことがある人ならわかると思うが、これは非常に扱いづらい。とはいっても、35 mmフィルムではおなじみの、非常に美しくて滑らかな色彩とグラディエントを生み出すのだから、ヴェルヴィアを支持するカルトはとても多かった。20歳のとき、僕は東京から福岡まで1ヶ月かけてヒッチハイクの旅をしながら、ヴェルヴィアで、まさにヴェルヴィアだけで撮影した。マゾな若造だった。
20 mm f1.7レンズの明るさのおかげで、ほとんどの場合、ISO感度を100のままにしておくことができる。僕がそのレベルを上げたのは、特に暗い屋内空間に入ったときと、夜間撮影の速度を上げようとしたときだけである。
ISO感度を変えるのはいたって簡単。僕ほど几帳面でなければ、これをカメラに自動でやらせることもできる。ISO感度を最大のままにしておいても大丈夫。それでも、ISOボタンはGF1背面の指示パネルの最上部に、使ってくれと言わんばかりに鎮座している。だから僕はこれを使うのだ。
GF1は小型で、操作ボタンのレイアウトもとても親切なので、ほとんど気を揉むことなく、すべて片手で操作することができる。
薄暗いぼんやりとした室内で老年の女性を撮影するときも、満月の下で数分間の長時間露光を行うときも、僕が触れたのはこの3つのボタンだけだ。
なんで三脚を持ってきたんだろうと思った。最初は、ビデオを撮るときに使うだろうと考えていた――忙しない交差点の真ん中にカメラを据え、行き過ぎる異国の生活を撮るのに必要だろうと……。ところがその後、僕たちがたどり着いたのはチョムロンというところだった。夜の暗闇の中、山々が目の前に立ちはだかっていた。
そのときだった。極寒の中に立ち、長時間露光で周囲の山の頂を捉えた最初の夜のショットを眺めながら、山道をずっと三脚を担いできた理由に気づいたのだ。
月が次第に満ちていくと同時に、僕は上へ上へと登っていった。夜の空は常に澄み切っていた。そしてマチャプチャレとアンナプルナ・ベース・キャンプにたどり着く頃、月は完璧な満月となってとても明るく輝いていた。
月の光があっても、光が足りないためにオートフォーカス機能は効かない。GF1は無限遠マークの直前に焦点を置き、山々を少しだけピンボケの状態にする。このレンズで焦点限界値までマニュアルでフォーカスするのは、想像以上にトリッキーである――焦点リングには実質的に「始まり」も「終わり」もないので(ただただ回りつづけるので)、真の無限遠を見つけ出すにはかなりの修練が必要だからである。
GF1は夜の撮影をとても優雅に処理してくれた。強い風と軽すぎる三脚という悪条件にもかかわらず、できあがったイメージが非常にシャープだったのには驚かされた。
そしてもうひとつの驚きは、長時間露光しても思っていたほどバッテリが減らなかったこと。凍てつく寒さの中(暖かい魔法瓶をカイロがわりにシャツの下に入れて)、何時間もかけて露光し、待っては確認し……という作業を何度も繰り返した。それでもバッテリ残量不足のランプはつかなかったのだ。
ひとつだけ残念だったのは、どんなにがんばっても、どうやら満月のディテイルを捉えることはできなかったこと。それは単に、月が明るすぎたせいである。
僕が写真を撮るのは、自分が経験したことを回想し、整理するためだ。
ビデオはあまりに変更不可能な感じがする。物語はあまりにはっきりと限定されすぎている。写真の曖昧さ、それが(僕にとっては)とても効果的なツールなのだ。
旅の記憶はせいぜい束の間である。これらの非常に肉体的な経験――農場の牛たちの鼻が曲がるほどの臭い、頬をなでる朝の山の身の引き締まるような空気、一日中登山したあとの全身の痛みーーそういうものはすぐに色あせてしまう。ひとつの旅を整理し、その意味を本当の意味で理解するには、数ヶ月いや数年かかるかもしれない。写真はこうした経験に立ち戻るための道しるべとなってくれる。写真はこれらの経験を、フレーム入りとはいえ、リアルなままに留めてくれる。そして振り返ることによって、また別の人間としてこれらをもう一度経験することができると同時に、その写真を撮ったときの自分がどんな人間だったかを思い出すこともできるのだ。
僕の写真ルール
旅の記憶はせいぜい束の間である。
写真はそうした経験に立ち戻るための道しるべとなってくれる。
旅も中盤に差し掛かるころ、何か不思議なことが起こっているのに気づいた――僕が写真を撮る人々は、その眼で僕と目をあわせていた。彼らは実際に僕の眼を見ていたのだ! 僕はあまりに長い間デジタル一眼レフカメラを顔に固定しつづけていたので、本物のアイ・コンタクトを忘れてしまっていた。
良かれ悪しかれ、ファインダーのないカメラというのはそれほど人を怯えさせない。半人半獣ならぬ「半人半カメラ」ではもはやない。その手に小さなおもちゃを持っているだけの完全な人間なのである。GF1はあまりにコンパクトなので、みんなはその存在を気にしないのだと思う。それは、率直でリアルな写真を撮りたいという人にとってはすばらしいことである。写真を撮られる人々は、自分が被写体であることよりも人間であることに集中できるからだ。
ちょうどランチを終えたとき、僕はこの最初の一枚を撮った。彼女は情熱的だが優しい女性だった。僕はあまり食べなかったと思う――普通の人はライスとレンズマメを何杯かお代わりするのだが、僕はお腹がいっぱいだったので一皿しか食べなかった。だから彼女に叱られた(「もっと食べなさい!」と)。そのとき、この部屋はなんてすばらしい背景を彼女のために作っているのだろうと気づいたのだ。
2枚目の写真の子供たちは、僕が水牛の目をじっと見つめているときに走り寄ってきた。女の子の方が、帽子をかぶった子を笑いながら僕に押しつけてくる。きっと、そんなに一生懸命水牛の目を見つめている人間に出会うのは初めてだったのだろう。GF1はおぼろげな朝の光の中にもかかわらず、くすくす笑い、小突き合いし、キャッキャッと叫ぶ彼女たちにフォーカスしつづけてくれた。
GF1には、本当にわずかだけれど好きになれないところがある。それはこんな点だ:
露光過多
ディテイルをぶれさせないようにキープするため、fストップをひとつかふたつ下げて、山や自然のショットを露光不足にする必要があることがわかった。これは特に雪をかぶった山頂を撮るときなどに明らかで、この欠陥に気づくのに数日間かかった。というのも……
LCD
LCDは大きくて魅力的だが、広々とした日中の陽の光の下ではほとんどまったく役に立たない。これはファインダーのないカメラのいずれにも当てはまる。とはいっても、GF1は(大部分のものを)露光し、ターゲットに焦点を当てれば、たいていは自分が望むイメージを得ることができる。上述のように――屋外では露出をひとつかふたつアンダーにし、直接光のショットにすれば問題ない。いずれにせよ、RAWで撮るのが大事。色やホワイトバランスの問題は「Lightroom」で修正できるのだ。
優秀なEVFがない
パナソニックがGF1の付属品として販売しているEVF(電子ビュー・ファインダー)を試してみたが、何か窮屈にも感じるし、解像度も低すぎる。もっとどうにかなるのではないかと思うが――同じくパナソニックのプロ仕様のGH1に付属するEVFは、非常に鮮明で、ハッスルブラッドのすりガラスを初めて覗き込んだときのことを思い出す――それはまるで別世界を覗き込んでいるみたいだった。GH1レベルのEVFなら、明るい日中での撮影だけでなく、慎重な夜の撮影にも役立つだろう。
動画モードでのオートフォーカス
コントラストオートフォーカスのアルゴリズム特性により、このカメラは、どの方向にフォーカスをシフトすればよいかを見定めるのに、まず両方向に動かさなければならない。これは写真を撮影するときにはまったく問題にならないが、動画モードでは非常に苛々する。解決策は? ビデオをマニュアルでフォーカスするのに熟練するしかない。
ISOノイズが高い
プロ仕様のニコンがISO感度3,200で何ができるか、見たことがあるだろうか? さらにもっと高い64,000では? それらを見なかったことにすれば、GF1をもっとずっと楽しむことができるだろう。
GF1のピッチはISO感度100でパフェクトとなる。200でもまだ大丈夫。400になるとぶれ始める。800は悲惨な状況でのみ使用すべき。もちろん、GF1がISO感度3,200で完全無欠のイメージを撮ることができればすばらしいのだが。ところがありがたいことに、20 mmレンズのスピーディさによって、通常ならISO感度800またはそれ以下で、最も困難なショットでない限りすべての撮影が可能である。
1/800 sec, f/8, ISO 400 1:1 Zoom
1/800 sec, f/9, ISO 400 1:1 Zoom
1/3200 sec, f/7.1, ISO 400 1:1 Zoom
この旅で撮った写真の中で僕が気に入っている何枚かの写真は、完璧な光が当たっている屋内のショットである。光が部屋に達するのを今か今かと待ちわびながら、何回も見に戻ったこともあった。屋外では、片眼で本を読み、もう片方の眼で風景にかかる光の変化を眺めながら、何時間も岩棚に座って過ごした。
ある場所を思い起こすとき、最も鮮明に覚えているのは、何かを期待しながら瞑想するこれらの瞬間である。人は何かを待っているうちに、自分自身の視界と親しくなってくる。僕はほとんどいつもノートを持ち歩いているのだが、紙を見ずにある物体の輪郭を描くことは、自分をほかの何ものでもない風景や被写体と結びつけるのに役立つことがわかる。
そうすることで、山の端や人影、木枝の曲線、屋根の不規則性の捉えがたさと変化に、否応なく無心に集中することができる。そして光がついにそこに達したとき、人は写真を撮り始めるのである。風景と沈黙の会話を続けてきたのだから、それをどう撮ればよいかはもうわかっているはず。
これら3枚の写真はどれも、待つことに関係がある。そして朝早く起きるということにも。
最初の2枚は、下山の途中で一晩だけ過ごした小さな村で撮影したもの。眠い眼をこすりながら早起きして、オムレツとおいしいコーヒーで腹ごしらえをし、太陽が渓谷の反対側を這い登り始めるころに出発した。何よりもまず、変化する影と朝の光の気配が、この村の風景にどう影響するかを見逃したくなかったのだ。
3枚目の写真は、アンナプルナ・ベース・キャンプで、まさに日の出の真っ最中に撮ったものだ。これまでたったひとり(1950年、フランス人登山家モーリス・エルゾーグが達成)しか頂上まで到達したことのない、8,000 m級の山頂高さを誇るアンナプルナの写真である。約1時間かけて巨大なモレーンの淵まで来たとき、ついに朝の太陽が充分に遠くまで退き、これらのトレッカーたちの影を捉えたのである。
まとめると、GF1は:
そんなわけで、僕がこのカメラを好きになるのはまったく驚くべきことではないのだ。過去2年間に撮った写真すべての枚数よりも、この3ヶ月で撮った写真の方が多いのもそのためである。実際、このカメラは僕をネパールへ導く起動力のひとつとなった――これを使うためのすばらしい被写体を、僕は探し求めていたからである。
20 mmレンズが装備されたGF1はまさしく、保存にふさわしいクオリティをもつRAWデータを生み出すコンパクトで美しい小さなマシンだ。それは常に僕と共にある。決して重荷になることはない。 そして、丸一日分の写真を「Lightroom」に落とすとき、僕はいつでも、遠い昔の小さな子供のころのような気分になり、自分がなぜ写真に夢中になったのかを再発見するのである。
GF1が求めるのはただひとつ: これを肩にかけ、価値ある旅を発見せよ。
All images © Craig Mod 2009-2010.
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写真はすべて、Panasonic GF1 + Lumix 20mm f1.7レンズを使用して撮影。すべての後処理はAdobe Photoshop Lightroom 2を使用。
いずれの写真も助成金その他のスポンサーは受けていない。ここに掲載された意見はすべて僕自身のものである。影響を受けたとすれば、それは高山病とダル・バートの食べ過ぎのみ。
日本語翻訳: 飯嶋貴子
日本語ウェブ活字アドバイス:@cpalmieri, @kotarok
日本語版編集手伝い:@dice, @kotarok