"iPad時代の書籍"を考える

Craig Mod, March 2010(日本語版、2010年5月)

悲しむ必要はあるのだろうか?

出版業界の足元がゆらぎ、同時にアマゾンのKindleの売り上げ台数が急伸するなか、旧来の「本」への思い入れを捨てきれない人々はこうした事態を嘆くばかりだ。だが本当に涙を流す必要があるのだろうか。

いま消え失せようとしているのは
- 読み捨てられるためのペーパーバック
- 空港の売店で売られているようなペーパーバック
- ビーチで時間つぶしに読むようなペーパーバックだ。

失われつつあるのは、ゴミとして捨てられる運命にあるような書物ばかりなのだ。見映えも持続性も、耐性さえも考慮されずに印刷されている書物。一度だけ消費され、その後は捨てられるだけの書物。引越作業の際は真っ先にゴミ箱行きになるような書物。

まず姿を消すのは、そうした書物だ。いま、はっきりと言おう。「悲しむ必要はない」と。

重荷となっているこれらの書物が消えてくれれば、ますます時代遅れになりつつある書籍流通の無駄もなくなる。物理的な書籍が消えれば、死に絶えた樹木(=紙)を世界中に空輸する必要もなくなる。

そして、より重要な好影響があることも容易に想像できる。出版への参入障壁が下がることにより、より尖った、リスキーな内容の書物がデジタル形式で現れることになる。新しいストーリーテリングの出現。環境への負荷の軽減。編集者の重要性の見直し。そして皮肉にも、実際に紙に印刷されて出版される書籍のクオリティーが高まるはずなのだ。

私は2003年から2009年までの6年間、美しい紙の書物を作り出した。6年もの間だ。紙を使った書籍だけに取り組んだ。21世紀にだ。

その仕事が大好きだった。プロセスがたまらなかった。成果物の最終形が素晴らしかった。あの小さなインクと用紙の塊の感触がすごくセクシーに思えた。そして今また、言える。コンテンツの作り手として、デザイナーとして、そして発行者として、iPadとその新しい可能性にとても興奮しているのだ。この興奮を素直に認めつつも、冷静にこの可能性について考えたい。

iPadの登場で、われわれはデジタル形式でリッチなコンテンツを消費するためのプラットフォームをついに手にした。だが、これはどんな意味を持つのか。iPadがなぜそれほどエキサイティングなのかを理解するには、まずこれまでの軌跡について考える必要がある。

ここで、新しいデジタル・パブリッシングに対する紙の書物の立ち位置や、これまで長い文章が画面上で読まれてこなかった理由、さらにiPadがこの混沌の中にどのように入り込もうとしているのかについて考えたい。そうすることで、コンテンツ出版に際しての紙とデジタルとの使い分けを明確にできると私は考えている。

これは書物の作り手、ウェブマスター、コンテンツの作り手、著者、デザイナーに向けた会話だ。美しい作品を愛する人たちに向けたものでもある。さらに、リスクを恐れず、自らの紡ぐ作品にとって最適の形式とメディアを模索するストーリーテーラに向けたものでもある。

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コンテンツの核心

あまりに長い間、印刷・出版という行為が過大評価されてきたと言える。しかし、モノの存在価値は、その中身であって、モノ自体ではない。そしてモノが書籍の場合には、その存在価値は当然そこに含まれる内容=コンテンツと結びついている。

ここでコンテンツを大まかに2つに分類してみよう。

  • 定まった形態のないコンテンツ
    ("Formless Conent"=「形を問わないコンテンツ」- 図1)
  • 明確な形態を伴うコンテンツ
    ("Definite Content"=「明確な形を伴うコンテンツ」- 図2)

「形を問わないコンテンツ」は、様々な形態に繰り返し移し替えることができ、それでも内在する価値を失わない。「レイアウトに左右されないコンテンツ」というとらえ方もできる。大半の小説やノンフィクション作品はこちらに分類される。

たとえば、作家の村上春樹がPCの画面に向かい執筆する際に、その文章がどんな形で印刷されるか、ということは考えてない。彼はストーリーを、どんな器にも注ぎ込むことが可能な「テキストの滝」と捉えているはずだ。(主人公がどんな料理を作っているか、どんなクラシック音楽を聴いているか、どんな不思議な女の子と出会うのか・・・実際にはそんなことばかりを考えているはずだが、きっとその料理、音楽、女性がどのようにページに印刷されるのか、書籍になった時の最終形については考えていないはず。)

それに対して、後者の「明確な形を伴うコンテンツ」は、ほぼすべての点で「形を問わないコンテンツ」の対極にある。画像、チャート(表)、グラフなどを含むテキストのほとんどや、あるいは詩などもこちらに分類される。このタイプのコンテンツは、後になって違う器に流し込むことも可能だが、その流し込み方によっては、内在する意味やテキストの質が変わってしまうおそれもある。

Mark Z. Danielewskiは間違いなく自分の次回作の最終的なフォーマットについて考えているはずだ。彼の作品の内容は明確な形態と分かちがたく結びついているので、元々の意味をすべて失わずに作品をデジタル化することは実際には不可能だ。"Only Revolutions"は、多くの読者から嫌われている書物だが、その理由は、この作品が2人の登場人物の物語を交互に読むことを強要されるからだ。2つの物語が表紙と裏表紙それぞれから始まる形なのである。

もちろん、書籍のデザイナーが著者の意思を汲み取りながらコンテンツをレイアウトする際に、そのレイアウトを通じて、形を問わないコンテンツにさらなる意味を加えるかもしれない。そうして出来上がった書物は、デザインとテキストが組み合わさった「明確な形を伴うコンテンツ」となる(サンプル"Vas"を参照のこと)。

現代の作品のなかで、「明確な形を伴うコンテンツ」の極端な例として、タフト(Edward Tufte)の著作をみるといい。好き嫌いはあるだろうが、彼が著者ならびにデザイナーの才能を兼ね備えた希有な存在であること、さらに彼が最終的な形と意味、そしてレイアウトの完璧さに徹底的なこだわり方を示していることは認めざるを得ないだろう(図3)。

具体的な形を持つ書物という文脈のなかでは、コンテンツとページとの間で発生する相互作用が、形を問わないコンテンツ明確な形を伴うコンテンツとを分ける大きな違いとなる。形を問わないコンテンツは、ページやその境界線にこだわらない。それに対して、明確な形を伴うコンテンツの場合は、ページを意識するだけでなく、盛り込まれた内容とページ上のレイアウトが不可分に結びついている。こちらの場合、コンテンツは特定のページのなかに収まるように編集され、改行が施され、そのサイズを決められる。ある意味で、明確な形を伴うコンテンツにとってのページはキャンバスであり、コンテンツはそうした特徴をうまく利用して、そのモノ自体とコンテンツの両方を、より完成度の高い一体のものへと引き上げる、とみることもできる。

つまり、簡単に言えば、形を問わないコンテンツは容れ物の形を意識しない。明確な形を伴うコンテンツは、キャンバスとなる容れ物を快く受け入れる。形を問わないコンテンツは、通常はテキストのみ。明確な形を伴うコンテンツには、テキストに視覚的要素が加えられる。

われわれが消費するものの多くは、形を問わないコンテンツに分類される。印刷物の大半を占める小説やノンフィクションは形を問わない。

この2年ほどのあいだに、形を問わないコンテンツを表示することに秀でた複数の電子端末が登場してきた。アマゾンのKindleがその代表だ。高い解像度の画面が装備されているiPhoneのような端末でも、従来のディスプレイ上よりも快適に長い文章でも読むことができる。

つまり、現在は簡単に、形を問わないコンテンツをデジタル形式を消費することができるのだ。

ただし、これらの端末で文章を読むのは、紙の書籍を読むのと同じくらい快適だろうか。

おそらく違う。たが近づきつつある。

人が印刷された「本」が失われていくのを嘆くとき、多くの場合はこの「快適さ」の消失を嘆いている。「目が疲れる」と彼等は言う。「バッテリーがすぐ切れる」「日光の下だと読みにくい」「お風呂に持ち込めない」などなど。

ここで重要なのは、この文句のいずれも文章の「意味」の消失に対するものではないこと。デジタルに変換されたからといって書物の内容が難しくなったり分かりづらくはならない。文句のほとんどが「質」に対するものなのだ。質に関する議論の必然的な結論としては、テクノロジーが画面およびバッテリー技術の進歩を通じてそのギャップを埋めており、またメモやブックマーク、検索といった付加機能により、電子端末での読書の快適さが紙の書物でのそれをかならず上回るということだ。

デジタル化されたテキストの利便性--読みたい時にすぐ読める、ファイルサイズおよび物理的なサイズの両方においての軽量性、検索が可能、といった諸点は紙の書物の利便性を既にはるかに上回っている。

これまでの分け方はシンプルだった:
形を問わないコンテンツを印刷するのをやめて、明確な形を伴うコンテンツだけを紙に印刷する。

だがiPadの登場でそれが変わる。

iPad

我々は紙の書物が大好きだ。それもそのはず、そもそも読む際には胸の近くで抱きしめるように持つからだ。PCの画面と違い、KindleやiPhone(そしてたぶんiPad)での読書もまた同じような姿勢をとる。テキストとの距離は近いし、文字を追うのも快適だ。そして、実際にテキストに触れるという一見些細な事実が、この読書体験をさらに親密なものにしている。

KindleとiPhoneはいずれも素晴らしい端末だ。ただしテキスト主体の書物しか対応していない。

iPadは読書体験そのものを変える(図5) iPhoneやKindleでのテキストの優れた読みやすさを、さらに大きなキャンバスに拡げてくれる。両端末の親密さや快適さに、よく練られたレイアウトを実現できるだけの大きさと多機能性を兼ね備えたキャンバスがもたらされる。

これは何を意味しているのか。一番はっきりしているのは、明確な形を伴うコンテンツをデジタル形式でそっくりそのまま再現できる(Fig. 6) という点だろう。しかし、やみくもにこの方針を取り入れるべきではないと私は思う。書物に印刷された明確な形を伴うコンテンツは、そのキャンバスのためだけに、特定のページサイズを想定して構成されている。iPadはこれらの書籍と物理的に似ているかもしれないが、その上に紙の書物のレイアウトをそっくりそのまま再現することは、iPadがもたらす新しいキャンバスやインタラクションを生かしきっていない可能性がある。

たとえば、ページのような最も基本的な要素について考えてみよう。「ページをめくる」ことのiPhoneでの再現は、すでに退屈で、そうすることを強制されているように感じられる。iPadでは、なおさらそう感じるだろう。コンテンツのフロー(流れ)はもはや1ページという分量に分けられる必要はない。新しい書物のレイアウトとして、各章を横方向に伸びる枠のなかに配し、各章のストーリーは縦方向に流れるように配置する、というのはどうだろうか。(Fig. 7)

紙の書物では、2ページの見開きがキャンバスだった。iPadでも同じように捉えがちだ。それはやめよう。iPadのキャンバスの場合、端末自体の物理的な境界を鑑みる必要があるが、同時にそれらの境界を越えて実質的に無限に伸びる空間を取り入れることが必要だ。

このキャンバスから新しいストーリーテリングの形式が生まれてくるだろう。これは、読者とコンテンツとの間の会話のモードを再定義する機会となる。そして、コンテンツ作りが自分の仕事である人にとっては、これはまたとない機会であろう。

我々が作る書物

紙に印刷された書籍は死んだのだろうか。答えはノー。

iPadのコンテンツについてのルールはまだはっきりと出来上がったわけではない。自信を持ってそのルールを定められるほど長くiPadを使っている人間はまだいない。しかし、私はこれまで6年間、書物の素材や形式、物理的な形やコンテンツを考えながら、そして能力の限りを尽くしながら紙の書物を生み出してきた。

これからの紙の書物に対する私の考えは、こうだ。

まずは「この作品は使い捨てにされる種類のものか」と自問してみよう。私の場合、この問いに対して考える際は、ある明白なルールしか思い浮かばない。

  • 形を問わないコンテンツはデジタル形式に移行する
  • 明確な形を伴うコンテンツはiPadと紙の書物の二つに分かれる

紙に印刷する書物は、制作工程に最大限の力を注ぎ込まなければいけない。デザイナー、出版者、作家がキャンバスとして認識した上で制作した本となる必要がある。物理的な形を伴うモノとして、これらの書物が何らかの意味をもつにはこれが唯一の道だ。

今後、印刷物として書物をつくることを考えるとき、必ず次の点に留意するよう私は提案する。

  • 我々が作る書物は、物理的な形態を必要とする - 物理的な形態がコンテンツと結びついて、内容をより輝かせる。
  • 我々が作る書物は、しっかりとした形態と資材の使用方法に基づいている。
  • 我々が作る書物は、印刷物であることの利点を上手に活用したものである。
  • 我々が作る書物は、長持ちするよう作られる。(図9a., 図9b.)

この結果は次のようになる:

  • 我々が作る書物は、手の中でしっかりとした存在感をもつものとなる。
  • 我々が作る書物は、懐かしい図書館のような匂いがするものとなる。
  • 我々が作る書物は、あらゆるデジタル機器を使いこなす子供たちにさえ、その価値がわかるものとなる。
  • 我々が作る書物は、紙に印刷された書物が思想やアイデアの造形物となり得ることを、常に人々に思い出させるものとなる。

この基準をひとつでも満たさないものは捨てられ、電子書籍化への流れのなかですぐに忘れられてしまうだろう。

使い捨てされる書物たちよ、さようなら。

新しいキャンバスたちよ、こんにちは。

見本リスト:

以下に挙げるのは、私の書棚から引っ張り出した書籍の一部である。これらの書籍は、前掲の「今後我々がつくる紙の書物」の精神を具現化しているといえる。物理的な形態と内容が不可分に結びついていたり、あるいは時間の経過というテストにパスしたものばかりだ。iPadが登場し、電子書籍が普及しても、置き換えられてしまうことがない書物。なぜなら、これらはいずれも完全なオブジェクトだからである。

とても美しい紙(Heian)の上に苦心して手刷りで印刷されたものもある。いい匂いのするものもある(やはりHeian)。また、作られてから100年以上の時が経過しているものもあれば(Overland Through Asia)、作られてから間もないけれども、著者とデザイナーの素晴らしい共同作業の成果であるもの(Vas)やそれ自体が芸術作品といえるものもある(A Dictionary Story)。

執筆者プロフィール:

クレイグ・モッド(Craig Mod)は、作家、デザイナ-、パブリッシャー、開発者であり、ストーリーテーリングの未来に関心を持つ。東京のアートの世界を詳しく描いた『Art Space Tokyo』の共著者でもある。また、仲間と立ち上げた"TPUTH.com"のエディター兼エンジニア、"Hitotoki"というストーリーテーリングの実験プロジェクトの発起人兼開発者という顔も持ち、Information Architects(日本)ともしばしば一緒に仕事をしている。モッドは東京在住(在日歴約10年)で、書籍やメディアの未来について講演をしたり、また素晴らしい食べ物とうまいコーヒーが生きがいだ。

モッドがデザインした書籍のコレクションは、ここのページでみることができる。

謝辞

このエッセイ執筆に携わる過程で、コメントや洞察、その他の話をしてくれた次の人たちに大いなる感謝の意を表する:
日本語版:菅原としのり, 原田卓 (Orinoco株式会社), 坂和敏
英語版:Ian Lynam, Hiroko Tabuchi, Liz Danzico,, Julia Barnes, Oliver Reichenstein, Mark Stephen Meadows, Chihiro Suda, そして広尾のいろいろなバーで会話を交わした名前も知らない天使のような(そして深い洞察力を持ち挑発的な)酔っぱらい。